かって日本経済が高度成長を果たした時の日本的労使関係の特徴は(1)終身雇用制(2)年功序列(3)企業別組合でした。しかしこれに代わって日経連(現・経団連)によって能力主義・成果主義の労働者管理が導入されて、日本の労働者の労働密度は高まり、長時間労働が進行しました。
もしある労働者が従来の2人分の労働をすれば、企業内に1人の「余剰労働力」が生まれることになります。しかもより安い労働力を求めて工場が中国や東南アジアに移転が進んだこともあって、日本企業の「リストラ経営」が始まったのです。当然にも労働者の失業者数は急増し、300万人を超えるようになりました。
この失業者のもたらす圧力が、労働者間の競争を一層激化します。こうして経営者が賃金を押し下げることを可能にし、賃金の低下は、また労働時間の引き延ばしを可能にするのです。
つまり大量失業・賃下げ・サービス労働・過労死・リストラ等の今日本で起きている現象は「能力主義」管理の結果なのです。
もっと正確に言えば、アメリカ政府の要求に従って、日本政府が進めた「自由化・民営化・規制緩和」の、いわゆる“ワシントン・コンセンサス”と呼ばれる政策が、企業間の自由競争を促し、経営者は競争力を強化するために労働を強化し、“サービス残業”という形での「不払い労働」を拡大し、派遣や請負で人件費を切り下げたのです。
こうした強制された労働者の働き過ぎは、何も個々の経営者の拝金思想による強欲の度合いや、資本家の善悪によるものだけではありません。それは自由競争という資本主義の法則が、経営者に対しては外的な強制法則として作用させるのです。
経済学者であったマルクスによれば経営者(資本家)の標語は「我亡き後に洪水は来たれ」であり、“自分さえ良ければいい”これが資本家の世界観なのです。
この世界観が労働者の度を超した働き過ぎを強要し、KAROSHI(過労死)が世界語となる事態を引き起こしているのです。
つまり経営者というものは、労働者の健康には、社会によって顧慮を強制されない限り、顧慮を払うことをしない“生き物”なのです。だからこそ労働基準法という「社会的規制」が作られたのです。
ところが政府の進めた「規制緩和」によって、日本の社会的規制は緩和され、労基法はますます“ザル法”となり、過労死や過労自殺を招いているのです。これはマルクスの言う「労働力の食い潰し」であり社会的損失です。
こうした事態を招いた背景には、労働者の味方であるべき労働組合が“家畜”のように飼い慣らされたことがあります。労働者は団結して闘えず、やむなく「個別紛争」という形でリストラと闘わねばならない状況になったのです。
「技術革新」(イノベーション)による生産性の高まりも野蛮な資本主義の下では、決して労働時間の短縮にはつながらず、逆に生産性の高まりは労働者を職場から追放し、失業者にしてしまうのです。
資本主義の自由競争の下では、労働者が働けば働くほど、失業者は増え、賃金は低下するのです。これは悪無限的な関係と言うほかなく、私達はこうした労働者を“搾り取る”仕組みを“野蛮な搾取”と呼んでいます。
労働者の働き過ぎが何をもたらすか、職場の仲間と話し合い、互いに働き過ぎて“自分で自分の首を絞める”ことをしないようにしなければなりません。逆に仲間と団結せず、働きすぎる行為は、職場の仲間達の反発を引き起こし、孤立することになるのです。
経営側の能力主義管理との“職場闘争”が今求められています。
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