私が20年勤めた会社を退職したのが40歳の時でした。初めて転職活動というものを経験した。学歴も資格も何もない自分にとっては厳しい現実が待っていた。業界は不動産営業、営業としての根拠のない自信だけはあったがそんなもの面接の時点では表現のしようもない。
ある日、ハローワークの求人票を手にした・・履歴書と紹介状を送ったが2週間何の連絡もなかった・・他のネット求人で応募した会社の面接を受けに向かってた時、知らない電話番号から携帯に連絡が入った。2週間連絡のなかった会社からでした。
「明日の9時に面接に来て下さい」とダメもとと思い翌日面接を受けた・・・。面接はひどいものだった・・。
「なぜ?高卒なのか?」「なぜ?資格を持っていないのか?」「自分みたいなタイプをどこが雇うと思う?」「うちは高学歴の有資格者しかいない会社なんだ」・・・。昨日のことのように覚えてる。それでも面接は1時間にも及んだ。私はどうせ無理なんだろうなぁと思っていたら・・。「最後にいつから来れる?」という質問。
選択肢のなかった私とっては言われたことはどうでも良かった・・ひとつだけ質問したのを覚えてる「なぜ?採用なんてすか?」すると、「うーん、即戦力は欲しいし転職歴がないからかな」という回答。早速、次の日から出勤した。
出勤して解ったことは営業社員全員が今月末で辞めるということ・・。確かに高学歴の有資格者ばかりに間違いはなかったが入社して半年未満の者ばかりだった・・入社した会社は新築住宅の建て売り会社。現場も5ヶ所総残個数20件以上あった。明らかに営業人数は足りない現状・・。私が入社して2週間後にもう一人高学歴の有資格者が入社して来たが・・。3ヶ月もたなかった。
求人条件は8時30分から5時までとなっていたが毎朝8時からミーティングが始まりそれまでに会社の掃除・準備を済ましておかなければならなかったので出勤は遅くても7時30分までにはしなくてはならない。私はそんなことは何の苦でもなかったが他の社員にとっては苦であったのかも知れない。
社長のパワハラと言える発言もほぼ毎日のように続いた、ただ、面接でのやり取りを経験していたので、ある程度想定出来たことであったのでそれも特に苦でもなかった・・終業時間は大体午後7時30分、12時間労働で残業代も貰ったことはない。
必死に営業で結果を残すしかなかった私は約1年で全ての在庫を一人で売った・・。入社翌年には意地で資格も取った。その頃には営業部以外の工務部の者もみんな辞めて私が工務部の仕事も兼務してやるようになった。(現実的には営業以外の知識やスキルを身につける機会にはなったのは事実だがそれに伴う賃金アップがあった訳ではない)
社長は朝は確かに早いのだかだいたいお昼過ぎには帰宅する・・だから日中のやり取りは殆ど出来ない毎日でした。正直・・帰宅してくれるのは心中ホッとする。仕事と関係のないモラハラ発言などを聞かなくて済むからだ。
こんな話をすればそんな会社にどうしているの?と思われるかも知れないが・・。私は心底この仕事が大好きで全ての分野に携われる環境は他の会社ではなかなか経験出来ない。だから社長からどんな事を言われても・・。ある意味社長と私の利害関係みたいなバランスが変な意味で取れていたのかも知れません。
入社してあっという間に8年目を向かえていた。今年に入ってのこと・・。社長の発する言葉に今までとは違う違和感みたいなものを感じはじめた・・。
それから、言われたことをメモを取るようになり会話を録音するようになった。そんな頃、新世紀ユニオンの角野委員長に相談する機会があり組合員になって・・。現在、社長は私に対して「懲戒解雇」だと口頭で言っています。理由は職務規律違反とのこと・・。就業規則を見せて下さいと聞いたところそんなものを見せると粗捜しをするだろうから見せないと言われました。
角野委員長に出会ってなければ運が悪かったと思い泣き寝入りしていかも知れません・・面接時のことがあったので入社して現在までのタイムカードのコピーとハローワークの求人票の写しなど資料をずっと残しています。
また、立場の弱い者がバカを見るということは絶対に許さない・・。7歳になる息子がいます・・。ずっと私を支えてくれてる妻がいます・・。その家族のためにも私は闘います。
成果主義や自分の都合で労働者を切り捨てるこの時代に角野委員長の指導を受けつつ微力ではあるかも知れませんが一石を投じればと思います。
私の父は労働運動を45年続け60歳で他界するまで闘い続けてた背中をずっと見て育ちました。今、そのバトンを受け継ぐ時が来たと思います。
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