人間の実践を基にした浅いところから深いところへ進む認識の発展過程は、実践の中で感性的なものから理性的な論理的な認識に発展する。つまり、理性的認識は具体的実践に(感性的認識に)依存するのである。つまり理性的認識は感性的認識を通して得られるのである。ところで雇用関係においては、場面・場面で具体的な行為を重視する場合と、一般的規定を重視する場合があるので注意が必要です。
例えば、地方労働委員会の不当労働行為の申立ては、個々の具体的な不当労働行為について救済を申立てします、その具体的な行為が不当労働行為に当たるか?規定の一年以内かを審査し、こうした申立て書面の内容を地労委が補正して受理します。
つまり不当労働行為は具体的行為について審査します。この段階ではその具体的行為が不当労働行為に当たるかはまだ分かりません。双方が書面と立証の段階を経て真理、すなわち不当労働行為が認定されたり、否定されたりします。
したがって一般的に地労委が受理する1年の数え方について質問しても、一般的な答え「不当労働行為を構成する事実を特定して頂かないと、回答のしようがありません」との回答が返ってきます。つまり具体的な事の質問は具体的にしないといけません。具体的な事案に一般的質問をしても、質問と回答がかみ合わないことになります。したがって欲しい答えは得られません。
具体的な事案とは実践に基づく感性的認識であり、例えば「使用者が労組を嫌悪し、敵視していたこと」「それゆえ組合員に不利益な扱いをしたこと」を不当労働行為の継続であるとして申立てし、地労委がそれをどう判断するか、という問題になります。
こうして一般と個別の認識の食い違いを利用して地労委が申立ての受理を引き延ばし、時間切れに持ち込む手法は詐欺的で、そこには補正して積極的に申立てを受理するようにする姿勢はうかがえない。しかし官僚もしくは官僚化した労務は、こうした手続き論の手法をよく使うので注意しなければなりません。
例えば、就業規則に「病気で7日以上休む時は診断書を提出する」と定められているのに、上司が「診断書はいらない」と言いながら。後で診断書が出ていないとして「無断欠勤だ」として解雇する例がある。裁判所は一般的な規定の方を重視するので解雇は正当と判決することになる。
医師は病名が分からない場合は診断書は書かない場合がある。それでも「無断欠勤」と言うのは公序良俗に反するのだが、法律家は就業規則の規定を重視する。
こうして管理職の「診断書はいらない」との発言は無視されることになる。個別的な管理職の対応がどうあれ、一般的規定(就業規則)の方が裁判では重視されることを頭に入れておかねばなりません。
つまり就業規則に「病気で7日以上休む時は診断書を提出する」と定められているのであれば、その通り診断書を提出しなければなりません。医師が病名が分からないので、診断書を書いてくれないのであればその旨、証拠を残す形で会社に申告しておかねばなりません。
このように個別的・具体的実践が重視される場合と、一般的な規定が重視される場合があり、個別と一般(具体的事実と法的枠組み)の違いをキチンと認識しておかないと、官僚や労務にごまかされることになります。
労使関係には双方に言い分があり、重要なのはどちらの言い分が正当なのか?ということを解釈する側の考え方でであり、それを考慮しておかねばなりません。
この社会では法律や就業規則の条項の解釈権を持つのは経営側であり、裁判所であり、地労委なのです。決して労働者ではないのです。
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