2014年10月に林業が破綻しているニュースが2件報道された。それらを紹介する。
まずは東日本大震災の復興予算が適正に使用されなかったニュースである。2014年10月8日付のネットニュースによると、被災した東北3県に住宅や公共施設の建設のために木材を供給する林野庁の補助金事業のうち実際に供給されたのは全体の0.7%にしかならず、木材が海外へ輸出されていた例もあったということである。
林野庁の審査が甘かったというよりも、そもそも行政の運営はこの程度のレベルであるとしか思えない。つまり、書類が揃っていればとりあえずは金をばらまく、あとは知らない、という図式である。会計検査院の調査がなければ、復興予算が被災地に届かないままであったことを考えると、いかに林野庁の事業が単なる金のばらまきでしかなかったことがわかるだろう。
しかし、現実的に考えるとどうも確信犯的な印象もある。各都道府県とも林業に関しては赤字の状況が続いている。今回の補助金事業は、当初から各都道府県への赤字林業の補填を目的としたばらまきであったと考えると、筋が通る。事業目的などを記載した実施要綱の中には、被災地への木材供給と併せて「(日本全体の)林業や木材産業の再生を図る」との記載があったため、建前上は流用しても問題がないことになる。結局、破綻している林業を補填するために企画された補助金事業であったのだろう。
会計検査院の調査結果が公表されたことで適正な使用が認められなかったため、林野庁は各都道府県に未使用分の返還を要求したが、ばらまかれた1399億円のうちたった490億円しか返ってこない。すでに赤字補填に使われてしまった後であり、結局のところ使い込みではないだろうか。補助金事業の原資は当然のことながら税金である。林野庁が事業で稼いだ金をばらまいたわけではない。行政は黙っていても原資が手に入るので感覚がマヒしているのであろう。
続いて2014年10月9日に大阪地裁で下された判決について紹介する。1984~99年に林野庁が「あなたの財産を形成しながら国の森林を守る」と謳い、延べ8万6千人から森林への投資のため総額492
億円を集め、出資金が元本割れして損害が出た「緑のオーナー制度」の判決である。林野庁は元本割れのリスク説明が不足していたため、出資者が提訴し、国が敗訴した。
元本割れの説明があったかなかったかが争点になっているが、むしろ儲かる可能性がないのにバブル景気に便乗し売りつけたところが問題だと感じる。証券マンではない林野庁にこうした経済投資の先を読む能力はありえない。つまり、当時は景気が良く木材も売れているから儲かるだろうという場当たり的な状況で投資を企画したとしか思えない。林野庁が自腹を切ったわけではないのと、企画担当者は数年で異動してしまうため、
10年以上も修正飛行する間もなく墜落した典型的な行政運営である。
下記のブログ記事を読むと林野庁の計画がいかにずさんであったかがわかる。
・林野庁 緑のオーナー詐欺事件2007年11月30日
・緑のオーナー出資者が林野庁を提訴2009年06月07日
・緑のオーナー制度:128人が2次提訴 国に1億円余求め2009年09月05日
・「緑のオーナー」85人に9000万円余りを賠償命令 国民に2014年10月10日
行政には『イメージ戦略で金を集め破綻したら責任を負わない』という悪しき習慣があるように感じられる。それは苦労せずに原資(=税金)が集まってきて、それらを自分たちの裁量で使えるという環境に慣れてしまっているためであろう。いや、裁量でなく議論した結論に基づいて企画したのだ、と反論するかもしれない。しかし、責任を負わずに済まそうとした時点で一般企業とは全く姿勢が異なる。しかも、敗訴したとしても結局は税金から賠償金を出すことになり、職員の腹は全く痛まない。
おそらく高裁の判決は逆転するか、賠償金はごくわずかになるだろう。なぜなら裁判所は中立ではなく行政の味方であり、この判例が残ると今後行政の過失による裁判の結果が不都合なことになるからである。
結局、これまで述べてきたように、現時点で林業は産業ではなく不良債権であり、行政主導で運営する限り将来も変わることはない。行政は高みの見物という感覚で、施策が失敗しても責任を取らず、現場はどんどん追い込まれていく。前の記事にも書いたように、行政を批判し改善していくべき大学や研究所の人間は多くが行政出身であり、また行政と癒着し研究費をもらっているため、林業を改善することはできない。
林業の改善には何が必要だろうか。まず市民=納税者の意識が変わることが必要である。環境保全だ震災復興だときれいごとばかりのフレーズに騙されないように注意しなければならない。一般市民にとって「林業なんか自分に関係ない」という意識も捨てなければならない。林業施策は一般市民の税金も使われているのだから、適正な税金の使用がなされているか監視しなければならない。行政の企画は問題だらけだと自覚して注視し、声を上げて批判しなければならない。また、林野庁の人数は多すぎると批判しなければならない。林野庁は庁にしては人数が多すぎるため、ピラミッド状の階層構造が存在し、頂点の人間に物申すことができなくなっており、上記の「緑のオーナー制度」のようなおかしな企画がまた作られ失敗を繰り返すことになるだろう。林業が産業でなくなっている以上、林野庁の人員を減らしていかなければ税金の無駄遣いとなる。環境問題を盾に林業の重要性を謳っているが、林業が金食い虫である以上、林野庁を縮小し環境問題を総括的に取り扱う省庁に再編することも必要かもしれない。
さらに、行政を批判できない大学の研究者や有識者を批判しなければならない。林業はオワコンであり、それを自覚しないまま行政の言いなりになっている大学へは子供たちを進学させてはならない。私たちはいつの間にか“お国のやることだから大丈夫だ”と信じ切ってしまっている。それは魯迅の『狂人日記』の中の“人喰い”習慣のようなものである。それを助長する大学教育は問題だらけである。大学の林業に関わる学部・学科は環境を対象とする学部・学科と再編し、グローバルな視点を養う次世代の担い手を育てなければならない。ただし、ここでいう“グローバル”とは、『世界中の林業を学ぶ』という意味ではなく、『林業だけではなくそれに関わる他の産業や森林以外の環境問題についても学ぶ』という意味である。林業だけではなく広い視点を持った子供たちを育てないなら、林業が変わることはない。
今後も林業が破綻していることを象徴するニュースが次々に出てくるだろう。それでも林業は本来日本の産業としては必要なものである。万が一であるが、日本が経済制裁を受けるとこの豊かさが虚構であったことが明らかになる。その時のために森林資源を維持するために林業は守らなければ
ならない。しかし、行政主導で運営され、市民が対岸の火事として問題意識を持たないのであれば、日本の林業に未来はない。
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